2008年06月24日

『私の戦中・戦後70余年』

赤石先生08年
自己紹介
昭和6年 栃木県日光市にて出生 
昭和27年に本学卒業(新制2回生)・本学の附属中学校に就任 
平成8年に定年退職 現在77歳

概  要
小学校1年で日華事変、5年で太平洋戦争勃発、高等女学校3年(現在の中学 3年)で終戦。正に私の青春時代は、戦争にどっぷりつかり、日本の軍国主義 真っ只中での教育を受けました。現在の若い人達とは大きく違った学校生活を送ったので、そこに焦点をおき、更にその後の生活にどう影響したか。

小学校時代
「男女7歳にして席を同じゅうすべからず」
の如く男女が同じ教室だったのは1,2年の時だけで、その後は用事があっても男子の教室に近づこうものなら皆から不良呼ばわりをされました。
祝日式典
(元旦1/1・紀元節2/11・天長節4/29・明治節11/3)には式のため登校し、ご真影(天皇陛下のお写真)のもと、国歌斉唱、校長の[教育勅語]拝読・講話がありました。
授業
で今と大きく違うのは[社会]でしょう。神代の頃の内容が深く、歴代の天皇の名前や教育勅語も覚えました。また、家庭科は和裁ばかり。幼児の祝着まで縫いました。
生徒の役割
(現在の委員・係)などは全て教師が指名し、選挙は無く(選挙の意味を知りませんでした)、会議なることをしたことがありません。教師から選ばれた級長(委員)は、選ばれたことを誇りとし、皆に号令し、せっせと教師の仕事の手伝いをしました。目上の人には絶対服従、自分の意見を言うなど考えたこともありませんでした。
国に忠節、親に孝行、素直でよく勉強をする子が「いい子」と言われました。そんな中で生きていた私たちは、それが当たり前で、何の疑問も持ちませんでした。
太平洋戦争
が始まっても、当初は大きな変化はありませんでした。身内・知人が戦場に出征することが多くなり、少々物が不足したかなと思うくらいでした。戦勝ばかり伝えられ、不足していたゴムが南方から送られて、学校でも運動靴やゴム毬の配給があり、日本は強いと思っていました。「贅沢は敵」にのっとり日の丸弁当持参の日が決められていて先生の検査がありました。更に、人手不足のためか、小学生なのに雪の降る中、ストーブで使う薪を山(霧降高原あたり)から学校まで背負って運んだこともありました。

高等女学校時代
この頃から私達の生活は大きく変わりました。空襲に備えて防空訓練が行われ、授業の時間が度々農作業に変更し、勤労奉仕・身体鍛錬の時間が行事として多くとられました。
農作業
学校の周りには広い空き地があり、農園を次々作りました。石ゴロゴロの土地を開墾し,畝作り、草むしり、虫取り、収穫まで全て生徒の手で行いました。本格的な広い農園の肥料は、人糞を桶に汲んで棒を渡し、2人で長い道のりを担いで運びました。それも素足で石ゴロゴロの道を歩くので、辛くて、泣きたかったけど歯をくいしばって働きました。肥料の1つとして堆肥を作るため、全校一斉に1日使って草刈りをしたことがあります。号令と共に生徒達は草刈鎌を手にし、校外に散りました。草刈りに不慣れな私は、柔らかそうな草が堆肥には良いと信じて夢中で大汗をかいて作業をしました。終了時刻に学校に戻ると担任の先生が草の量の検査をしていて、体積が少ない私の草の量では不合格。不合格者は一列に整列させられ、ピシッピシッと頬を殴られました。生まれて初めての経験でした。このときばかりは途中の努力を考慮せず結果だけしか見ない仕打ちに、痛さの何十倍もの口惜しさで体が震えました。この光景をときどき視察に来る憲兵が見ていて、満足げでした。
田植え・稲刈り
その時期になると7,8名が一つの班となり、各農家に配分されて一日中の作業でした。しかも集合場所から農家までの一里(4km)の道のりを徒歩で往復移動し、それが2週間続くのですから体はくたくたでした。移動時はいつも元気に軍歌を歌いました。
松の根掘り
この作業を3週間の合宿生活の中で行いました。松の根から油をとり、戦争で使うとのこと。宿から鍬を担いで徒歩・電車で現地に赴き、根を掘り起こすのです。長距離の往復と労働に加えて食事が貧しく、疲れとひもじさで家が恋しくて床の中で泣きました。この期間に友人の一人が病におかされ、「起て一億!」と叫びつつ亡くなりました。
身体鍛錬
と称し、積雪40㎝の「日光のいろは坂」を登ったり、宇都宮から日光までの十里(40km)の道のりを歩きました。何れも一貫め(4kg)の砂袋を背負わされました。
学徒動員
作業服に布のキャップをかぶり、ジュラルミンという金属製の飛行機の部品を30cm程の鑢で形を整えるために削るのです。金属粉の空気の中、立ちっぱなしの重労働でした。工場の門の出入りには整列して歩調とれの号令のもと足を高くあげて行進します。下駄履きですからカッカッと、けたたましい音でした。班は分隊、クラスは少隊、学年は中隊と軍隊と同じでした。休日は日曜だけで、しかも日曜は隔週で学校に登校しました。つまり休みは1ヶ月に2日きりでした。「月月火水木金金」、即ち土・日は無いという時代でした。
授業
1年のときは70%程の授業はありました。2年より農作業・勤労奉仕・・と、労働が烈しくなり授業はちらほらで、学徒動員時は月に2日きりでした。身体はくたくたでしたが、この2日間が非常に非常に貴重な日でした。何しろまともな勉強をしていません。私は勉強が好きでした。通知表に[修練]の1項目きりないのがやりきれませんでした。勉強がしたくても家では身体の疲れをとることで精一杯。夜中の空襲時は防空壕に入るので寝不足の毎日。この登校日2日間を大事に大事に過ごしました。
終戦
当時テレビが無く、ラジオでは状況がわかりませんでした。原爆についても同じです。戦争に負けた という実感は数日してから湧いてきました。何よりも 勉強ができる!! 私は涙が出る程の喜びを覚えました。教科書は無かったけれど学校での授業は最高でした。空白部分を埋めねばならないので、兄の参考書でむさぼるように勉強しました。ただ、民主主義なるものがすぐには理解出来ず、選挙があって委員に選ばれても、どう進めればよいかわかりませんでした。皆の前で意見を言う経験も無かったのです。

大学時代
新円切り替えなど困難な時代に、両親は快く進学を許してくれました。当時女子大と名がつくのは日女大と東女大の2つだけでした。素直だった私が初めて両親の反対を押し切ったのは理系に進んだことでした。勉強に飢えていたクラスの者達は、休日に教授の迷惑も考えずに願い出て特別授業をしていただいたり、友人と2人で有機化学(後藤格次 著)なる本で勉強したものの、授業をさぼるなどの勿体無い事はしませんでした。とにかく何でも出来る世の中を利用しない法は無いと大変な欲張り者になっていました。寮生活のこと、当時の食糧難・物資不足その他言いたいことが山のようにありますが、時間切れで ここで止めておきます。

その後
大学時代前半で終わりましたが、卒業後勤めた附属中学では生徒と共に勉強し、教えられることも数々。また同僚の教育に携わるエネルギーには頭が下がりました。教師になってから創立者成瀬先生の偉大さを知り、本学が戦中でも軍国主義に傾いていなかったことが頷けました。生徒へのきめ細かな対応は、附属校・大学全て同じと信じています。戦時中はやりたいことが殆んど出来ませんでした。何にでも取り組み可能なこの環境を是非生かして下さい。現在と私の青春では天と地。しかし お陰で友人との絆は固く、農業の知識を体得し、忍耐を体験して非常時に強く、頑丈な身体になれたと思っています。 現在は4人家族の主婦として、家事を切り回していますが、同時にパソコン、編み物、 仲間との月1回の日帰り旅行や麻雀などで楽しんでいます。私に年寄りの意識はありません。これからも何にでも挑戦して、悔いなく生きていこうと思っています。

sugakudososugakudoso at 22:02│コメント(0)トラックバック(0)

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